死の恐怖に関する体験談とは

戦争体験者が戦争の悲惨さを語ることと、

生命の危機を感じるほどの家庭内暴力を受けた人間で、

その口から語られる体験の悲惨さ・インパクトには大きな違いはないと思う。

理不尽で抗えない死への恐怖の体験やそれが継続することの精神的なダメージ、トラウマという意味で、推し量ることのできない苦痛という意味で同じと言えるのではないかと思う。

人類や歴史の規模で考えれば、戦争という大きな出来事のインパクトは大きいが、人間はあくまで個人で感じるものだ。

死の恐怖の体験談は、どんな理由であれ特別なものだと思う。バカな理由で死にかけたにせよ、興味深いことだと思う。

いつでもどこでも否定論

「いつでもどこでも」という価値でスマホは流行ったが、
利便性というメリットの裏返しとして、見落としがちなデメリットが存在する。


いつでもどこでもできるということは、
できることを選択肢として常に頭の片隅に置かないといけないということでもある。
また「いつでもどこでも」は裏返すと「今じゃなくていい、ここじゃなくていい」ということでもある。


スマホの機能が、常に雑念として頭にあるのである。
常にスマホを持ち歩く現代人は、スマホの必ずしも完璧ではない機能が体の一部になっているということである。


スマホの機能はいつでもどこでも使える。

だからいつもどこにいても縛られている。

 

ポケGOみたいに、この場所・この時間と限定されたものに価値があるというと、少しいいたいこととズレている。そうではない。

 

結論から言うと、生活がグダグダになってはいけないのである。
ダラダラ残業をするように。
YouTubeをいつまでも観ているように。
旅行先でもソシャゲばかりやっているように。寝る時でもゲームしてたり。
いつでもどこでもできてしまうことをいいことに、いつでもどこでもゲームしてたら生活が崩れてしまう。
会社に勤めている人は、職場でゲームはできないというプレッシャーがあるから助かっているだけだ。

 

では人はどうするべきだと言いたいか。
「この場所にこの時間にいる時は、これをするしかないという環境やルールを作る。」
またはその方法を考える。そうすべきだと思う。

 

職場の机でPS4をやるのは罪悪感があるだろう。だから仕事をすることができるのだ。
仕事机は食卓ではない。だから仕事机の機能が奪われないのだ。
風呂や布団はパソコンをやる場所じゃない。だから風呂や布団の機能が奪われないのだ。
寝ながらパソコンができる環境を作るのは、本当にやるべきなのか?浸食行為といえるかもしれない。
トイレにいるときは用を足しながら壁に貼ってある地図や訓示でも眺めていたらいい。
その空間が、そういう行動だけを容認しているのだから。
トイレでもスマホを使ってるようなのはバランスを狂わせる。

「この場所にいる限り、これしかできない!だからこれをやる!」
これが大事で、人間は昔は、そうして仕事をしてきた。
そこにスマホが持ち込まれてしまったから、脳の数パーセントをスマホに裂かなきゃいけなくなった。
現代人はスマホに浸食された。
スマホから取り返さないといけない。

電車に乗っている時のような空白の時間にスマホを使うことを許容する。

集中して作業するときはスマホなど禁止して、作業だけを考えていればいい状態を作らばければならない。

 

 

膨大な動画や画像を保存した端末があって、いつでも見られるとしても、見なきゃ意味がない。印刷してトイレにでも貼ればいいではないかと思う。トイレに行けば見られる。実際の生活で目に入れることができる。

 

まとまっていないが、「いつでもどこでもできる」ということが生活を改善するに違いないと思い込んで、実際の生活をグダグダにしている人はもしかしてめちゃくちゃ多いんじゃないかと疑っている。

 

大人になると凝り固まってしまう理由

大人になると思い込みが激しくなって凝り固まってしまう。

だけどそれは必然的にそうなっているからそれでいいのだと思う。凝り固まるからこそ自信を持って子供に何かを教育することができるのだと思う。

文明存続のためには、頑固な大人が必要なのだ。

もし柔軟な大人しかいなかったら、宗教を強く信仰するようなこともないだろう。子供たち対して「死んだら多分無になると思う」「自分が生きてるうちに楽しけりゃそれでいい」みたいなニヒルな思想を与えるかもしれない。そんな社会は滅びるだろう。というか、滅びたのだろう。

大人になっても凝り固まらないDNAを持つ人間によって作られる文明は自然淘汰によって消えてしまった。

だから現存する社会には、凝り固まった大人が一定割合以上いるものなのだと思う。

社会を変えるには3つの力が必要

① スキル(プログラミング能力とか、絵の上手さとかいろいろ)

② 実現力(それらの能力を運用し、いかにして製品を生み出すか、わかる力)

③ 先見の明(その作品が社会的に受けそうかどうか見定める力)

 

 

一言

正直にならなければ、世の中よくならない。

 

個人レベルでは、嘘をついて上手くやっていくというのはある。

それは別として、正直な人間の割合が増えれば世の中は良くなる、と思っている。

 

何故なら、意見が伝わりやすいから。

ポケットモンスター 陽キャ&陰キャ

雑な言い方でいつも使いにくいんだけど、人を「陽キャラ」「陰キャラ」の二元化でまた考えてみる。

陽キャと陰キャは持ちつ持たれつの関係である。

陽は相手が陰だから陽で在りうる。逆もまたしかり。

 

陽は多人数で行動し、バラエティ番組のように常に楽しくありたいから場の盛り上がりを大事にする。だからグループ内の人間が変な行動をすれば「イジる」。

大勢に笑いが起きる。快感である。

もっと面白くイジれば、もっと盛り上がるかもしれない。

 

一方、グループ内にいた陰キャにはそういった文化は希薄である。彼らの基準での「変な行動」をしてしまい、イジられる。

大勢に笑われる。不愉快である。

 

こうして陽はさらに陽に、陰はさらに陰に。

循環である。

陽キャと陰キャは持ちつ持たれつの関係なのである。

個人と群衆

人間というものは…

個人個人のレベルで見ると、一人ひとりちゃんと自我を持っており、ものを考えることができるんだけど、群衆のレベルで見ると、どいつもこいつもアホばっかりに思えるものだと思う。

 

人は頭がいい。なのに大衆は頭が悪い。なぜ?

 

それは、人が群れを成すには、共通項を旗に掲げるしかないし、その共通項になるほど知性の無いものになってしまうからだと思う。

 

つまり、人がグループを作るには、誰かと共感できることを見つけて、その共感できる事を武器にして徒党を組んでやっていく。共感できる事がグループ内のアイデンティティとなる。

 

共通の体験というものは、グループの人数が増えるほど、インパクトを薄めてしまう。

 

世の中にはいろんな人がいる。だから、そんないろんな人が共通で感じられるエリアは、人数が大きくなるほど反比例で狭くなる。

 

 

多人数化したグループは、誰もが当たり前のようにわかりきっている事実を共通項として掲げ、一体感を得ている。だから頭が悪い感じにならざるをえない。

 

その原則が常に働いている。

だから個人は頭が良くても、群衆レベルになると頭が悪い。

(ちょっと説明うまくいってない)