子供の、頭のいい奴
大人がやるべき事としては、
「子供の頭のいい奴」の心に響くようなものを作らないといけない。
そいつらが未来をつくるんだから。
大人の頭のいい奴ではない。
大人の頭の悪い奴ではない。
子供の頭の悪い奴ではない。
子供の頭のいい奴だ。
そいつらが現代をつくるんだから。
いままで賢い子供が感動して本気になれるようなものを大人たちが絶えずつくってきたんだから今があるんだと思う。
クリエイターのジレンマを超える
クリエイターのジレンマについて。
萌えやエンタメに媚びればうける、伝えたいことをやれば受けない。そのジレンマ。
たとえば宮崎駿だってもちろんそういうことはかなりあっただろう。
トトロとか…(自然と遊べがテーマなのにトトロのビデオを見る子供に嘆くとか)
小規模な作品だと、媚びるか、伝えたいことをやるかの二択になってしまう。
今のネットは短絡性に特化したクリエイターがたくさんいるが、
媒体(twitter)が短絡性を歓迎しているので、そうなりがちなのだ。
つまり媚びれば受ける、啓発しようとすれば受けない。
危険な傾向だ。そして若いクリエイターは短絡性に捕らわれがちになっている。
だからこそ、もっとマッシブな作品を本気で作ればいい。
巨大な規模の作品は、様々な表現を組み込める。
それ自体が競争率が低いのもある。
そういうフィールドであれば、媚びながら伝えることが可能だ。
そういう作品は懐石料理である。どんな人にも楽しみどころがあり、リーチでき、主張できる。
これを作れるクリエイターは立派である。スキルと覚悟がある。
勢いで作るだけのクリエイターじゃない。頭でっかちなだけのクリエイターじゃない。
ネットに流されず、挫折を乗り越え、崇高な精神を手に入れたクリエイターだ。
クリエイターとしてのニヒリズムを超えたところにあり、ストイックに作り続ける精神があるからこそ、懐石料理がつくれるのである。
課題
僕の文章、何が言いたいのか伝わらない。
それが課題だ。
もっと伝わる言葉を書こう。
社会の勉強をするべき…?
若いと偏った考え方に傾倒しがちで、愚直に同じ事柄にリソースを割きがち。
一生懸命やって、達成した。
でも、その成果は、後々考えてみると、全体のなかのほんの一部分の成果でしかなかったことがわかった。
俺の数年間の努力は、大したことのない成果に向けて消費されたことが後になってわかってしまう。貴重な数年間を浪費した…
ということがあるだろう。
的をよく狙ってから射るべきなんだよね。
勉強すればするほど、世の中がこうなんだということがわかる。
ある程度はそうやって勉強してから活動した方がいいんじゃないかと思った。
…勉強に時間を割きすぎて、やがて一般的感覚と乖離したり情熱が失われたりというのもよろしくないけど。
結局のところ、勉強するほど、フィールドがミクロからマクロへ遷移していくという問題なのかもしれない。
勉強すれば、技術は磨かれる。
勉強すれば、目線が高度になり社会を俯瞰できる。
職人気質?言論人気質?そのバランスは。
こうなると難しくてまとめられない。
モラルなき経済活動
まだ貨幣の無い頃、
俺がお前の家を建てるから米をくれよとか、物々交換とか、
そうやって役割分担して助け合いの社会が成立していた。
口約束が当たり前、隣人との信頼関係を築き、助け合う社会だった。
歴史の中のある時、
より助け合いを広く一般的に行えるように、貨幣が発明され、導入された。
だけど貨幣はそれをめぐって騙し合い、略奪し、人間のエゴを助長することにもなった。
現在も、詐欺、悪質な広告、悪徳商法、そうでなくても購買意欲をむやみにかきたて、いかに搾取するかという視点でのビジネスは次々に生まれている。
社会の繁栄という観点からすれば、本末転倒なのである。
助け合えば反映し、騙し合えば衰退するのが社会である。
お金に縛られ、エゴに走り、助け合いを忘れると、社会は衰退するのだ。
「助け合い」言葉にするといかにも説教くさい、古い言葉になる。
しかし、人類の繁栄は助け合いが前提だ。
A:助け合い
B:経済活動
とすると、
「AかつB」は崇高な仕事だ。
「AでありBではない」はボランティアだ。
「BでありAではない」はろくでもない商売だ。
社会をよくするにはモラルが大切なのである。
お金に惑わされてはいけない。
結論だけ書くと、やはりいかにも説教くさい、古い言葉になるのだ。