いつでもどこでも否定論

「いつでもどこでも」という価値でスマホは流行ったが、
利便性というメリットの裏返しとして、見落としがちなデメリットが存在する。


いつでもどこでもできるということは、
できることを選択肢として常に頭の片隅に置かないといけないということでもある。
また「いつでもどこでも」は裏返すと「今じゃなくていい、ここじゃなくていい」ということでもある。


スマホの機能が、常に雑念として頭にあるのである。
常にスマホを持ち歩く現代人は、スマホの必ずしも完璧ではない機能が体の一部になっているということである。


スマホの機能はいつでもどこでも使える。

だからいつもどこにいても縛られている。

 

ポケGOみたいに、この場所・この時間と限定されたものに価値があるというと、少しいいたいこととズレている。そうではない。

 

結論から言うと、生活がグダグダになってはいけないのである。
ダラダラ残業をするように。
YouTubeをいつまでも観ているように。
旅行先でもソシャゲばかりやっているように。寝る時でもゲームしてたり。
いつでもどこでもできてしまうことをいいことに、いつでもどこでもゲームしてたら生活が崩れてしまう。
会社に勤めている人は、職場でゲームはできないというプレッシャーがあるから助かっているだけだ。

 

では人はどうするべきだと言いたいか。
「この場所にこの時間にいる時は、これをするしかないという環境やルールを作る。」
またはその方法を考える。そうすべきだと思う。

 

職場の机でPS4をやるのは罪悪感があるだろう。だから仕事をすることができるのだ。
仕事机は食卓ではない。だから仕事机の機能が奪われないのだ。
風呂や布団はパソコンをやる場所じゃない。だから風呂や布団の機能が奪われないのだ。
寝ながらパソコンができる環境を作るのは、本当にやるべきなのか?浸食行為といえるかもしれない。
トイレにいるときは用を足しながら壁に貼ってある地図や訓示でも眺めていたらいい。
その空間が、そういう行動だけを容認しているのだから。
トイレでもスマホを使ってるようなのはバランスを狂わせる。

「この場所にいる限り、これしかできない!だからこれをやる!」
これが大事で、人間は昔は、そうして仕事をしてきた。
そこにスマホが持ち込まれてしまったから、脳の数パーセントをスマホに裂かなきゃいけなくなった。
現代人はスマホに浸食された。
スマホから取り返さないといけない。

電車に乗っている時のような空白の時間にスマホを使うことを許容する。

集中して作業するときはスマホなど禁止して、作業だけを考えていればいい状態を作らばければならない。

 

 

膨大な動画や画像を保存した端末があって、いつでも見られるとしても、見なきゃ意味がない。印刷してトイレにでも貼ればいいではないかと思う。トイレに行けば見られる。実際の生活で目に入れることができる。

 

まとまっていないが、「いつでもどこでもできる」ということが生活を改善するに違いないと思い込んで、実際の生活をグダグダにしている人はもしかしてめちゃくちゃ多いんじゃないかと疑っている。